昭和48年01月10日 朝の御理解
御神訓 一、「我情我欲を放れて真の道を知れよ。」
真の道を知る又真の道を目指す。それはどう言う様な事であろうか。それには我情我欲を放れてと仰せられる。そんな我情我欲といったものが、すぐ簡単にとても取れようとは思われない。それでもやはり真の道を求め、願い続けて真の道を極めて行こうというのが信心です。そこで私は私の信心から聞いて貰える事は、真の道を目指すという事は、大変に有り難い事である楽しい事である。
例えば今朝からの、私の実感を聞いてもらうなら、もう訳はないのです。只有り難いのです。だから、その結構毛だらけの事ばっかりあっておるかと言うと、決してそうじゃないです。夕べなんかはもう何回も何回も、神饌室の冷蔵庫まで普通と乾きが違う。今迄は枕元に水差しが置いてあって、そのお水を頂いておった。ところがどうもお水ではこたえない。何かこう喉がジガジガするようなものを頂きたい。以前はサイダーを沢山頂いてましたけれど、御神様からサイダーはやめよと頂いて。
この事なんかでも私は、どういう訳でサイダーをやめなければならんのかって、訳を神様に聞いた事もないし、又、神様も仰って下さらんのです。何か喉がジガジガするものを頂きたい時には、サイダーの代わりにビールを飲めという事を頂いた。と言うてビールをいつもガブガブ飲んどく訳にも参りませんからね。昨日はコカコーラがございましたから、コカコーラを二回程、夜中に頂きに参りました。例えば昨日一日の事でも、有り難いという事だけではない。
それは色々困った事もあれば、心配なこともあるのですけれども。その困った事心配な事、又不安に成る様な事を、神様におすがりが出来るという事が、有難いらしいんです、分からない。ただ有難いのですから。それがおすがりが出来る神様を頂いておるという事が有り難い。そこには不安な事やら心配なことを願う、その先にはもう不安もなからなければ心配もない。そんなら自分の体の上にでも、只今申しますようにそんならとにかく、体の調子がよくてこうという事はない。
特に夕べなんか、異常なまでに乾きが普通と違う。それでもね、只私がこれは私のいつも願いとしておることですけれども。朝の御祈念の時間、このひと時がね私の一日のうちの一番調子がよい時。いわゆるコンディションがよい。もう私が神様に向かわせて頂くのに、一番都合のよい心の状態を願わせて貰うから、その前後の事を色々工夫させて貰う。ですから、ここへ三時半に出てくる訳ですけれども、もうその時が最高潮に有り難い時。今言う只有り難い。
それはもう本当に結構な極楽のような中に、お生かしを頂いておるという事ではない。痛いもあれば痒いもある、いろんな我情も我欲も出てくる。自分の思いも出てくるし。けれどもねけれども有り難い只有り難い。だからこれはもう只有り難いのですから、理屈がない。これが真の道じゃなかろうかとさえ思うくらい。と言うてそれが真の道と決まったものでもない。只真の道を目指させて頂いておる事だけは間違いがない。
そして思うのです。その我情が我欲が、日々のその様な信心生活、信心の稽古をさせて頂いておるうちにです、思う事もなくなり欲しいものもなくなりと、三代金光様が御述懐のお言葉の中に有りますような、純粋なそうした我情我欲を放れた姿というものが頂けれるのだとこう思うのです。例えば阿倍野の先生の例をとりますとです、まだ十幾つでおありになる時に、もう一切合切を有り難く受けて行こう、私の一生はもうこれで行こうと決められたと言う。お話にあの継母とまま子の話を聞かれた。
どんなに例えばお魚の、頭のとこだけをつけられても、思い替えをして有り難い、尻っ尾の所をつけられても有り難い、真ん中の所をつけられりゃ尚更有り難い。と言う話を聞かれて、私の一生もこれで行こうと決められたにしてもです、決してその時点でね、有り難いという事が生まれてくるはずはないです。只努められただけなんです。本当に自分にこんな頭をつけて、本当にこれが食べられるはずはないのにこういうものをつけて。そしてこげんして迄自分を苛めなさらなければならんだろうかと。
やはり思いも起きてくる。けれどもはぁこれではいかん、これではいかん。これを何とか思い替えをして、有り難く頂いていく工夫をしなければ、自分の本当の助かりはないぞと言うところからです。色々考えて言うならはぁこれは、お母さんが自分に人の頭になれ、人の頭になれと言うて思うて頭をつけて下さるんだ、頭をつけて下さるんだといった様な思い方をなさって、何十年間の信心修行ではなかったかと思うのです。
我情我欲というものが、その場で取れるという事はない。只方針だけはハッキリしてるのだ。どんな難儀な、それが問題であってもです。そこで人間関係なんかの場合でも、様々な私の一生の間には、随分と吉良上野介です、いわゆるもろのうですはね、お芝居で言うともろのう。それに例えば私をいじめ抜かれた人達も沢山ある。その中には老いも若きも男も女もあったけれど、その全部の人達が私の恩人だという風に、だから吉良殿吉良殿と、殿をつけて話しをしておられますですねお話の中に。
吉良上野介と言うちゃない。だからその時点で、吉良殿とは頂けてなかったに違いはない。私はそうだと思うです。だから我情我欲を放れてという事ではですね、そんなに一辺で放されるもんじゃない。自分の思いもそんなら子供達にも、この子はああもあって欲しい、この子はこうもあって欲しいという思いなんです。けれどもこれは我情なんです。もう神様に任せとるけん、いっちょん考えませんと言う事が、初めからそんなにスキッとする筈はないです。
けれどもですそこの所をお取り次ぎを頂き、お願いをしていけれるという事。そして成程是は皆さんの場合で言うならば、どんな心配な事があっても、お取り次ぎを頂いて本当に親先生任せでいけば、こういうおかげが受けられるという体験が、段々出来てきて初めてです、これは思い煩うという事のつまらないという事が分かってきて、自然なくなってくる訳なんですね。
私は昨日この事を、本当に切実に感じました。真とか真心とか言うけれどもです、そんなに真、真心という様なものがですね、簡単に出来るもんじゃないと思うておった。所がねその時点時点が真だ、その時点時点が真心だ。只真心を目指しておればいいのだ。そしてこれが真だという様なものは絶対出てこない。けれどもそれを段々段々いわゆる本当なものに、限りなく近づいて行くという事が真だ。
努めても努めても、又努めても努め足りぬが真なりけりという様にですね。もう真と思うていなくてもです、形の上だけでもその時その時点が、その時点をですね、私は神様は真として受けて下さるという事を、昨日杉山三男さんの所のお母さんの五十日祭でございました。勿論秋永先生達夫妻が、本腰入れてからのでしょうけれども。そういう風な働きになってこなければならないような事になってるです。杉山のああした大きなお家ですから、兄弟十二人おられる三男さんの兄弟が。
その一番上の兄さんの嫁さんが、仏壇をどうでも自分方に持って行くち言わっしゃるそうです。そして仏さんな私が見るち。どうも沢山な香典が来ておるから、どうもそれが目当てらしい。そこでその三男さんとしては、持って行くなら持って行ったっちゃよか、俺げにゃ改式するけんでち言うごたる風に、思うたり言うたりせんならん様な状態になってきて、だから持って行くなら持って行けと言う様な所へ、丁度五十日祭に当った訳です。大橋から色々言われて、まぁ昨日兄弟の方達も見えられてからの五十日祭。
だから御霊様をここへお移しを申し上げると言うことと、五十日祭と併せてさせて頂いた。その事を私神様にお願いさせて頂いておりましたら、大きな海老の天ぷらを頂いたんです御心眼に。だから天ぷらというのは、中身が無いという事です。天ぷら工事なんかと言うのは、ごまかした工事なんかを、天ぷら工事と申しましょう。衣で包んでるから中は分からんのだ。これは本当の真心じゃないな真じゃないなと。只親方達に言われて、今日の霊祭を三男さん仕える事になった。
けれども段々お祭りが進んで御霊様の方へ移らせて頂いて、神饌がが出来てそれから銘々が玉串を上げる頃にはね、あぁ良かったといった様なものを、私が感じたんです三男さんが。自分が玉串を愈々上げさせて頂く時には、本当にこれでお母さんに少しは喜んで貰えると言った様なものがね、これは只有り難いのです。訳じゃないです。そん時に私が頂く事が天ぷらのその衣ですね。その衣が綺麗に取れて行く所を頂いたんです。
ははぁだから私は、昨日それを本当に思わせて頂いてですね、初めの間は形式でもいい、形でもいいて。ここにね生きた宗教の素晴らしさがあると思うですね。これがもし宗教そのものが死んだ宗教であったら、幾ら形を麗々しくしたって、そういう事になってこない。それを奉仕しておる取り次いでおる私自身の、いわゆる信心で段々そのお祭りが進んでいくに従ってです。そんならここにお参りし合うておる者も、皆んなが所謂信心の無い兄弟達迄がです。
やはり何か知らんけれども、只何とはなしに、涙がにじんで来る様な有難さを感じておるのが、私に伝わってくるのです。天ぷらであったつが、天ぷらの衣が綺麗に取れて、海老だけのところを頂いてですね。その事を聞いて頂いてこれは三男さん、どうでも今度、御仏壇をそげな風にして、兄さんの所にあげるならね、お神様はお母さんの時代からお祭りしてあった。昔から只途中でやめておられただけの事である。
けれども新しゅうお神様も新たに、又御霊様も新たにお祭りさせて頂いて、家で拝んで、家で奉仕をさせて頂いてです。さぁお供えのひとつもさぁ婆ちゃんが甘いものが好きだったから、辛いものが好きだったからと言うて、奉仕をするような事になってくると、御霊様と段々深ぁい交流が始まってきてです。初めの間は形だけでええけん、いっちょどうでんこうでん、家に奉斎式をさせて貰いなさい。まぁ大した金のかかる事でもないから、一つお宮さんでも新に作らせて貰いなさいと言うた事でした。
まだその気はなくってもいいんだと、形だけでもいいんだ。御霊様は仏壇持って行くから、拝む所もないのだからそうしなさい。だからその時点を神様は真として受けて下さるんだとと言うて、真というのは限りがないのである。私はその事を頂いてから、ある一つの事を思い至らせて頂いておる事が、今日あるんですけれども。これが真にならなければ許されないなんていう事はないですね。
もうその人の今の時点を真として、それを育てていく。段々おかげを頂いておるうちに、衣がとれて本当なものになっていくという事になる。例えば今日の我情我欲を放れてという事もです。とても一辺にとれる事はあろうはずがないのだ。三代金光様でも初めの間は辛うて辛うて、よう泣いたと仰せられる位に難しい。それを辛抱しぬかれていくうちに、思う事もなくなれば、欲しいものもなくなって、只あるものは有り難うて有り難うてというものになっておられる。
私が今日感じる有り難うて有り難うては、そういう感じなんです。金光様の場合は、その有り難うて有り難うて、そのお礼の足りないお詫びばかりを致しておりますと言うところ迄に、至ってませんけれども、只有り難うてという事は、私はもう同じだとこう思うのです。だからとても私どんじゃ難しか、とても私どんじゃ出来ん等と言わずにです。みなさんがお参りをしようと言う、その心はもう真心なんです。
お賽銭の十円でも、お初穂の百円でも、お供えをさせて頂くという事は、それは不純なものがついておったにしましても、私はそれを真としてお取り次ぎさせて頂く。そうしていくうちにです、このような事では相済まんのですけれどもという様な、いわゆる純粋な真というものになってくるんじゃないでしょうか。だから不浄がついとってもええ、不純なものであっても良い、やはり形の事がなされていくうちに、昨日の三男さんの所の霊祭じゃないですけれども。
初めの間はそげんせんでんよかろうとこへ、大橋がやぁやぁ言うもんですから。もうそれは本当私はたまがりました。もうとにかくあの御直会は鉢が来とる、こんな大きな鉢五つ持って来とる。たった十人しかおらん。誰がこげんしこ頂くのちと言うようなですね、大がかりな事なんですよ。ですから三男さんとしては、そげんせんでんよかばってん、大橋があげん言うけんででしたこっでは有りましょうけれどもです。
けれどもそういう風にしてでも、不純なものが付いておるけれども、お祭りが段々段々進んで参りまして、御霊様のお祭りにならせてもろうて、それから自分達が玉串をあげる頃になって来たら、いわゆる信心になっておった。ああ良かった。有難いと言うものになって来た。いわゆる私がそのお知らせを頂くのに、そんなら、初めの間は、天ぷらであったのがです。天ぷらの衣がとれて、本当なものになって来た。
そんならこれで良いという事はないのです。だからこの次にはもっと、真を以って真心を以ってと言うことになって、いわゆる我情我欲というものが、外れて行くようにね。本当の真と言うものが出て来るように。だから、あんたのは真心じゃない、真心じゃない。そげなこっじゃいけないと言うのじゃなくて、その時点の処をですね。私は真としてお取り次ぎさせてもらや、神様が真として受けて下さる。
どんなに阿倍野の先生であっても。まぁだ二十才前位のお若い方がです。お話を聞いた途端にもう頭じゃろうが尻尾じゃろうが、中身じゃろうが、なんでんかんでん、兎に角有難い有難いで受けて行く。もう私ゃこれに私の一は決めたと、例えば決心されたからと言うてです。それが有難いで、其の時点で受けられたはずはないのだけれども。それを神様は段々そんなら吉良上野介から、いじめられる時にはそれは辛いだろう。
それこそ浅野内匠頭じゃないけれども、切りつけたい位に、思いもする事もあろうけれどもです。いやいやここを一つ有り難う頂かにゃと言う、精進させて貰う努力を、させて頂いておられる内にです。本当に有難いの権化という様な感じの先生が、何十年の後に出来られた。その時点で本当の物じゃ無いけれども、本当の物として受けておられるから年々歳々、阿倍野の教会が繁盛の一途を辿ったと言う事になっとる訳です。
始めからほんなこつじゃったから、ほんな事をしておられたから、やっぱおかげを受けられたと言う事ではないという事です。ですから成る程我情我欲をとる。そらそげな難しか事は出来んと言わずにです。やはりそれが本当だと、真の道を目指させて頂く事が、本当だと分からせて頂いて、それに一歩一歩近づいて行く処の修行をさせて頂くと言う事。食物はみな、人の命の為に神様が作って下さるもんだから、何を食うにも飲むにも、有り難く頂く心を忘れなよと。
けれどもやっぱり自分の嫌いなものを食べんならん時には、有難いものは出てこないのだけれどもです。それを例えば有り難く頂く事が本当だとしてです。そこをお詫びをしたり、有り難く頂く稽古をさせて頂く内に、段々有り難く頂けて来るようになるのであるけれども、もう其の時点で有り難く頂いた物として、神様が受けておって下さると言うことを、私は今日気づかせて頂いた様な気がする。
昨日三男さんの所の、霊祭を奉仕させて頂いてです。だから自分の信心が天ぷらだ、ほんなもんじゃないと言うて、嘆く事も悲しむ事もいらん。それが信心の何かに触れる時、それが、いつのまにか取れて、本当なものになって行くおかげを頂いて行く。そういう繰り返しをね、私は信心辛抱と言うのではなかろうかと。とてもあの人のごたる真似は出来んと言うて、もう出来んち言うて決めてしもうてはならないと言う事。其の人其の人なりの信心を、そこから頂いて行けば良い。何時の間にか我情がとれて来る。
何時の間にか、我欲が取れて来る。そこから真の道を知れよと仰る。其の真の道とは、こういう事ではなかろうかと、今朝私が感じる様に、只有難い訳はない。と言うてそんなら私は何処が有難いかと、私の上にも様々な難儀と言うものは、色々あるのである。それでも有難いと言う事だけは事実なんだ。本当に信心は理屈じゃないですね。結局只有り難うてと言う境地がね、開けて来る事を楽しみに信心して行かにゃ行けません。だから今日のこれで良いと言うことでは、決して有りません。
けれども今日の例えば皆さんのお参り、皆さんのお供えそれは真だ、真心だとして神様は受けて下さる。と言うてそんなら今日の通りであってはならない。昨日金光青年が送って来た。ちょっと開いたところを、見せて頂いておりましたら、ある方が随想と言う所で、光の道と言う、書いておられるのに、ちょっと見よったら、これは合楽の事を書いちゃるとたいと思ったんです。それが此の頃ここで青年会の信心実習会がありました。そん時の事を、ずうっと書いてあります。
まあ誉めてあるのやら、皮肉を言うてあるのやら分からん様な事なんですよ。それをここで合楽教会と書かずに、九州のA教会と書いてある。「A教会の会堂の威容を持ち出す迄もない。」まぁ言うなら、余りにも素晴らし過ぎた、その人にとってはね。それからA教会の五年祭を仕えられるという前に、若先生を初め修行生の方達が修行をしておる。その修行の事がやっぱちったさわったらしい。
同時に竹内恵美子さんがお話をしました。そのお話もです、それは大変有難い事だという風に書きながら、こういう風な事を書いてある。「その時青年信徒の意見発表で若い女性が、会場となったA教会の開教五周年記念祭を仕えるに当たり、若先生達に習って、断食修行をし、同時に小遣い銭を一切使わぬという修行もされたと言う話をされた。修行に類する事をした事がない私だが、実は私は修行に憧れているのである。
話される若々しいお顔を見て、何と痛ましいと思う反面、サドだかマゾだか知らぬが、奇妙な快美感とも言うべき感情が、湧いて来る。」という風に書いてある。サドだかマゾだか分からない。言うなら叩いて快感を覚えると言うのがあるでしょう。例えばそう言うような見方をしている訳です。私がそういう修行を奨励する訳でも何でもないけれども、結局若い人達が止むに止まれん思いがね、神様に向けられる。そういう一念が様々な厳しい修行にもなって来るのですけれども。
合楽の場合はね。例えばそういう、ほんなら自分の身を削り、又は体を傷めてもです。心を神様へ向けて行くという信心の後に、有難いと言うものが生まれて来る。その有難いと言うものは、こういう物だという事が分かって、そういう例えば言うなら表行的な事はせんでも、そういう喜びが頂けるようになるのが信心なんです。ですからそういう例えば、皆さんが眠たいのに、こうして朝のご祈念にお参りをされる。
眠たいけれどもそれは、言うなら身を削心を削りして、お参りをされておるのでありますけれども、お参りをして良かったと言う。そんな時にはしるしいから、本当なもんじゃないけれどもです。それが段三男さんのそれじゃないけれども、初めの間は真心と言うものじゃなかったけれども、お祭りを奉仕して行くうちに、段々本当の物が出て来た様にです。その本当なものが、出て来ると言う修行なんですからね信心とは。
だからその手段はその人その人によって、それは違いますけれども私が今朝から感じます、只有り難うてと言うのはです。そういう例えばほんなら、断食をしたり水をかぶったり、一銭も金を使わんといった様な修行をせんでも、その有難いと言うものが、段々出来て来る。そんなら過去に於いては、やっぱり私もそう言う所をさせて頂いて来た。本当な事ではない。その事は、ここで、こうして批判を受けておる訳ですけれども。成る程、それは、本当な事ではないのだけれどもです。
それを本当なものとして、神様が受けて下さっておる証拠に、その結果に有難いという答えが出て来ておるじゃないか。しかもそんなら一生逆立ちをせんならんと言う様な修行を言うのでなく、一生断食とか水行とかと言う表行をすると言うのでなくて、只過程に於いてなのである。我情我欲が一杯である。その我情我欲を取らせて頂くことの為のです。信心修行がなされて行く内に、段々手が掛からないなりに、只有難い有難いと言う事になって来るのでございます。
私は金光様の信心があんまり、只すんなりとですね。誰でもが合点が行くような信心から、生まれて来るとは思われませんです。例えそういう信心を、しておるに致しましてもです。それでは結局一生、有難いものに触れられないじまいで、お終いにならなきゃならない。ですからそういう例えば、一つの修行をさせて頂いても、我情をとり我欲を取らせて頂く稽古。それを私共は家庭生活の中に見、家庭生活の中から頂いて行くと言うことになります。
初めの間はやはり、きつい事はきついけれども。きついで受けたんじゃ出来んから、これを修行で受けさせて頂くという事で、おかげを頂いておるとです。成る程、神様が、修行として受けて下さる。だから受けて下さったその後は、有難いと言うものになって来ておるのです。ここら辺の所を私共は、我情我欲という様な難しいことがです。人間業とは思われない、とり外すという事なんかは、難しいのですけれども、泣く泣くでもやはり、辛抱して行く内に、段々、本当なものになってき、これは、我情がとれた姿ではなかろうかと言うように、自分で思わせて頂ける頃になって来るとです。
只、只有り難うて、有り難うてという事になって来るのじゃないでしょうか。何を食うにも飲むにも、有り難く頂く心を忘れなと仰るけれども、そんな訳にはいかん。やっぱり自分の好きなものは、美味しいけれども嫌いなものは美味しくない。有り難く頂けない。けれどもそれが、栄養になるんだと分かると、苦いものでも叉有難いと言う頂き方が出来るようになる訳です。そこのところの事を、教えておられるのが、この、我情我欲を放たれて、真の道を知れよ。一遍に真の道が、分かろうとは思われない。
我情我欲が、一遍に取れようとは思われないけれども。その我情我欲を放たれて行く信心がです。日々の生活の中から、小刻み乍らもです、段々頂けて行き取れて来る様なおかげを頂いて行く楽しみ、そういう喜びと言うものをです。それをサドだとかマゾだとか言うたらね。もうそれは本当に信心は、おかしな事になって参りますけれども、やはり苦しいけれども苦しい中から、有難い物を分からせて貰う事が、信心なのですから。ひるまずに、やはりそういう信心を続けて行かなければいけない。
真の道を分からせて頂くという事。それが信心の目的。昨日から頂きますように、私共が、大改まりに改まらせて頂くと言うこと。それは自分の心が御利益の方へ向かずに、自分の心が神様の方へ向いた時、それがいわゆる我情我欲の方へ向いておったものがです。神様の方へ向いた時が、大改まりが出来た時だと言う、昨日ご理解を、頂きましたが。その大改まりが出来るまでにです。小刻みに私共がそういう信心をさせて頂いて、いわゆる決定的な瞬間とでも申しましょうかね。
そういう時期に恵まれた時にです。完全に自分が神様の方へ向かっておる信心にならせられるおかげを頂いて、そこから真の道がハッキリして来る訳です。兎に角私は信心は、理屈じゃない。批判をすれば今のような批判も出来ますけれども、もう理屈じゃない。問題は、有り難くなることの為の稽古なら、そんなら断食もしてみろう、いっちょ金一銭でん使わんといった様な修行もしてみろうという様な、私はそういう信心意欲が、なからなければ出来ないと思うですね。
どうぞ。